足立仁十郎を探して

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この本について

著者:平野恵子

この本について:幕末の会津藩の財政を支えた会津人参貿易。
それを取り仕切っていた足立仁十郎のことが、長崎の郷土史には残っていない。
「それはなぜ?」。長崎での足立仁十郎を探してみました。

「会津葵」に名を残す足立仁十郎とは?

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会津銘菓「会津葵」の栞に名を残す足立仁十郎とは?

長崎と会津のつながりを調べていると話したら、知人が「会津には、長崎伝来と言われてるカステラに餡が入ったお菓子があるよ。」と教えてくれた。 それが、「カステアン会津葵」。


私の中にある会津のイメージは、美しく格式高い日本文化のそれも武家の文化が浸透した街だったので、南蛮文化との接点があるのはかなりの驚きだった。
さらに、大きな驚きにであったのは、「カステアン会津葵」というお菓子の”いわれ”の文章を読んだときだ。

 謎の南蛮文化と会津葵
…前略…ではどうして長崎からはるか離れた山国会津に数多くの南蛮文化がもたらされたのでしょう。 それには二つの大きな潮流が考えられています。 一つはレオという洗礼名を持つ隠れもなきキリシタン大名蒲生氏郷、他の一つは長崎にあって会津人参の貿易を一手に引き受けていた豪商足立仁十郎であります。
仁十郎は二年に一度会津を訪れて南蛮文化をもたらしました。
会津の不思議な異国趣味。それを運んだ二つの潮流の接点に生まれたのがカステアン会津葵です。
弊舗秘法の餡入りカステラ。会津葵は藩主松平家の紋どころ、お菓子の押文様は藩侯の文庫印「会津秘府」をうつしたものです。…後略…(上菓子司会 津葵製造「カステアン会津葵」に同封されている商品説明より抜粋)


長崎の豪商・足立仁十郎という名前が出てきたが、その名前は長崎生まれ長崎育ちの私にも初耳だった。 この日から、頭の中は足立仁十郎でいっぱい。
とりあえず、まずは原点の「カステアン会津葵」をお取り寄せし、長崎のカステラとはまったく違う風味の餡入りカステラをいただきながら、伝記や小説があるか調べてみたが、ない。 長崎の歴史に詳しい知人たちに聞いてみても、教師で郷土のことを教えている人に聞いても足立仁十郎を知っている人がいない。
今の長崎で「あだち」といえば地場の総合商社株式会社安達商店というのがあるが、そことはまったく無関係だ。
長崎大辞典など、郷土のことを調べるために書かれた、図書館で持ち出し禁止の本など、手当たり次第に調べていくが、長崎の中に「足立仁十郎」という名前が残っていないのだ。

「会津葵」に名を残す足立仁十郎とは?

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「泣血氈」の謂れに残る名前

翻って、会津関連の書籍を調べてみようとサイト検索をしてみたら「会津戦争全史」の著者星亮一氏のオフシャルサイトにヒットした。そこから入った講演記録のなかに、
前文略… 「泣血氈」というのがあります。長崎の商人、足立仁十郎から会津藩に贈られた、赤い絨毬です。
あの降伏の式の時に路上に敷いて、松平容保がそこに立って、謝罪をした、あの絨毬があります。
その日出席した内藤介右衡門とか梶原平馬、萱野権兵衛ら何人かの人が切り取って、絨毬を分けあいました。
それを泣く、血の、毛氈の氈「泣血氈」と名づけて、「この日を忘れないように」持ち帰ったのです。…後文略
 
という内容を見つけた。会津では間違いなくこの人の名前が記録されているのに、地元盤の長崎には、記録されていないのだ。
幕末の志士たちの活躍の舞台の1つでもある長崎は、いつのまにか自分たちも新しい時代を開いた勢力の一つであると自負し、旧幕府に関わった人や事柄を抹消してきたのだろうか。
積極的に抹消したわけではないが、あまりふれたくないものとして無視し、その果てに忘れ去ってしまったのだろう。あまりに悲しい。

そうなるとよけいに気になってしまう。絶対に見つけてやる。そうでないと足立仁十郎がかわいそうだ。
ジタバタあがくと何かに引っかかるもので、足立仁十郎に関する本がたった1冊存在することを知った。
貿易の視点から足立仁十郎を調べた人を知った。豪商足立仁十郎の大邸宅兼店舗の場所が分かった。
この場所がわかったことで、「落花は枝に帰らずとも(中村彰彦著)」で秋月悌次郎が長崎遊学時に西浜町の宿屋に拠点を置き、唐通詞を雇って唐人屋敷を見学できたわけも推測できた。

「会津葵」のおかげで、長崎と会津との大きな接点となる人物にたどり着けた。
まずは、足立仁十郎の墓所探し。そこを出発点にしてみようと思っている。

仁十郎の長崎の墓所

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明治維新の長崎から消えた田辺屋

会津藩御用達の豪商・足立仁十郎は、長崎を拠点にしていながら長崎ではほとんど知られていない。
会津の人には信じられないだろうが決しておおげさなことでない。長崎でアトランダムに100人に聞いてもおそらく1人も知っている人はいないだろう。
答辞で言えば賊軍の象徴とも言える会津藩の御用達だったことが足立家を長崎の歴史の表舞台から抹殺することになってしまったのだろう。
それでも、会津和人参の貿易を取り仕切っていた長崎会所の記録などには、足立仁十郎のビジネスのようすが少し残っているようだ。

会津藩は享保年間ごろから、藩内で朝鮮人参の栽培に取り組み、幕末には「会津和人参」の名前で清国に輸出していた。
価格と出荷の安定を図るために輸出の取りまとめを幕府に要請し、幕府は長崎奉行をとおして長崎会所に任せた。
この貿易を一手にひきうけたのが長崎の豪商足立仁十郎だった。
足立家の屋号は「田辺屋」。田辺屋は、当時の東浜町(現在の浜町アーケードのど真ん中あたり)に100坪以上の店構えだったらしい。(長崎には榎津町に「海老屋」という屋号のもう1軒の足立家があったが、こちらは柳川藩御用達だったと子孫の方から聞いた。)
こんなに繁盛した豪商が明治維新急速に衰え消えていったのには、それなりの理由があるのだが、それはまたの機会にゆずるとして、家屋敷は消えてしまっても墓所は残っているはずと言うわけで調べてみた。

唐寺に残る墓所


我が家のある風頭山のふもとに「黄檗宗聖壽山祟福寺」という唐寺がある。
赤い竜宮門で有名な観光名所だ。ここの墓所に足立家の墓があった。
昔の長崎の墓所独特のアーチ型の門構えの中に足立仁十郎とその息子など一族の墓碑が立っていた。仁十郎の墓はやや大きい。
墓標によれば、足立仁十郎智義は明治14年9月7日に81歳で郷里の与布土(現・兵庫県朝来市山東町与布土)で亡くなっている。
その墓は、晩年をすごした郷里の与布土にある。先日子孫の方からメールをいただき、そのメールには、お参りをしたお墓の写真が添付されていた。
加えて、仁十郎が活躍した長崎にも彼の墓がある。長崎に残った養子・程十郎(監吾)たちが、与布土で亡くなったことを知って、長崎の墓所も仁十郎の墓を立てたのではないかと思う。
驚くことに、足立家の長崎の墓所は、国宝の唐寺として有名な祟福寺にある。
このことでも、足立家は 唐通詞との関係が深かったことがわかる。

仁十郎の長崎の墓所/続き

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以下の図は墓所の主な墓の配置。
1.=足立正枝  大正10年4月10日卒 (仁十郎の孫すじにあたる)
2.=足立程十郎知之 年34歳  元治元年8月10日損館(この程十郎は早死した実子か?仁十郎の後をついで活躍する程十郎とは別人)
3.=足立智義 明治14年9月7日卒  81歳 (足立仁十郎の墓。仁十郎は、智義のほかにも監物、泉、などとも名乗っていた)
4.=足立監吾  明治22年5月1日 卒 享年49歳(この人が、仁十郎の後をついで活躍した程十郎だと考えられる。この人は、唐通詞神代家から養子に入ってきたらしい)
5.= 陽健三邦泰  文久3年5月7日  行年38歳
6.=足立礼三   大正3年4月29日 66歳


「足立仁十郎」の肖像画

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足立仁十郎の郷土は与布土

13年ほど前に発表された会津若松市の林俊氏の研究発表の本に足立仁十郎の誕生地のことが書かれていた。そのなかで、菩提寺に肖像画があると知った。

仁十郎は、享和元年(1801)但馬之国(今の兵庫県)与布土村の郷士の次男として誕生し、成長してから大阪の薬種問屋「田辺屋」に奉公している。
このころ「田辺屋」は会津の和人参を取り扱っており仁十郎はその指導や買い付けに行っていたようだ。
その後、仁十郎はのれんわけのかたちで長崎に「田辺屋」を開くことになり、会津和人参の取引も引き継いでいる。大阪の田辺屋というのは現在の田辺製薬の前身になるらしい。
仁十郎の菩提寺は故郷与布寺の玉林寺で、長崎の祟福寺の足立家墓所にある墓は養子で幕末の人参貿易の実務を取り仕切っていた程十郎やその身内の人々が分骨などして建立したもののようだ。長崎の仁十郎の墓には祟福外護と彫られているのはそんないきさつからかもしれない。
玉林寺のご住職を紹介していただき、肖像画のことをお尋ねしたら、たしかにあるということで、このたび、長崎の歴史文化協会会報に足立仁十郎について書くことになったので写真をいただけないかとお願いしたら、快くひきうけてくださった。
とどいた写真は彩色の肖像画だった。

「足立仁十郎」の肖像画/続き

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仁十郎66歳のころの姿らしく、裃の家紋は、長崎の足立家墓所の家紋と同じだった。
興味深いのは裃のしたの着物の袖にある家紋。これが「三つ葉葵」なのだ。おそらく会津公からの拝領の着物なのだろう。
仁十郎はこのころすでに会津藩に藩士として取り立てられていたのだが、彼がいかに会津藩から厚遇されていたかがわかる。それだけ和人参の貿易は会津の財政を支えていたということだ。(『慶応年間会津藩士名録』によると仁十郎は足立監物という名で七百石・御聞番勤肥前長崎表住居の御側衆という高待遇で会津藩士に取り立てられている。)
もう1つ興味深かったのは、仁十郎の小刀の鍔。長崎の郷土史家越中哲也氏のよれば、この鍔はたしかに「長崎鍔」の意匠ということだ。

足立仁十郎の肖像画だけでも、会津と長崎と与布土をつなぐ確かな接点が読み取れる。
私が、足立仁十郎という人について調べているということは、長崎市内の歴史研究の人々にも少しは知れ渡ったらしく、「史料を調べていたら足立という名前がでてきたわよ」と教えてくださる方も出てきた。自分の興味は多くの人に伝えることが大事だなあと思い知らされる。
足立家の衰退の理由もわかった。
幕末維新の大転換に翻弄された商人の姿がそこにあった。大事のためには少しの犠牲は…というようなことがよく言われるが、足立家に起こったことを見ていくと、明治維新がいかに庶民の犠牲を強いていたかもわかる。
また、その事件には長州ファイブの一人が大きく関わっている。

田辺屋の場所の変遷

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田辺屋,今はデパート

足立仁十郎が一代で築き、養子程十郎が引き継いだ会津藩御用達・安達家「田辺屋」の地理的位置はどこだったのか?
本馬貞夫氏が昭和59年に書かれた「会津藩御用達足立家についてー幕末長崎の人参貿易商」によれば、足立仁十郎の「田辺屋」は、今の長崎の中心街「浜町」のど真ん中「浜屋デパート」のところにあったという。
慶応4年辰4月の「家屋舗根証文」のなかから足立家の東浜町にある土地を抜粋してみると
1.東浜町    田辺屋程十郎
  表口  弐拾参間四寸 但五ヶ所
  土蔵  五間二三間  弐戸
  借家           壱軒
 〆代金四千両
1.東浜町    田辺屋程十郎
  表口  拾間五尺四寸
  土蔵  三間二弐間半  壱戸
       弐間二三間   壱戸
       三間二三間半  壱戸
       弐間半二三間  壱戸
       弐間二三間   壱戸
  〆代金 千三百両
とある。
このほかにも本興善町や本古川町に土地や借家もっていた。
東浜町の店舗や自宅土蔵借家や隣接する所有地をあわせると約900坪以上になる。
東浜町の600坪以上の敷地には立派な建物が建っていたらしいが、その土地家屋も没収され、その後、その土地家屋はそのまま「警察所」として使われたと書かれていた。

前線基地としての長崎

明治2年、箱舘戦争も終わり国内は新しい勢力によって塗り替えられたが、それらの勢力の中味は必ずしも一致していなかったようで、明治6年、西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣、江藤新平などの下野とともに各地で不平士族の反乱の気配が起こったようだ。(佐賀の乱などは、実際に反乱があったわけではく、政府側の陰謀による成敗との説も出てきているのですべてが反乱だったとは言えないようだ)
そこで、軍事戦略的にも要所である長崎での警備や情報収集が重要だということで、長崎に多くの警察官を派遣した。そのため、長崎では警察施設の拡充の必要が出てきて、港にも近い中心街の広い敷地をもつ没収物件をそのまま警察所にしたのだろうということらしい。

田辺屋の場所の変遷/続き

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最近読んだ「新・長崎風土記」(永田信孝著・長崎出島文庫)に、長崎都市域の拡大の様子を見るため水帳という土地台帳のようなものから起こした略図が掲載されていた。その略図がたまたま東浜町のものであり、足立の田辺屋があったまさにその周辺のものだった。
以下に掲載した2図は「新・長崎風土記」に掲載された明治元年と明治20年の東浜町。
・上の図は明治元年の東浜町。下の図は明治20年の同一場所。
・上図で緑色に塗っているところは「田辺屋程十郎」もしくは「足立程十郎」と書かれている。 
 足立程十郎は仁十郎の養子に当たる人で、仁十郎が会津藩家臣になってからは長崎の商売は表向き程十郎が継いだと思われる。
・下図のピンクで塗っているところには「八十八番 警察所敷地六百六十三坪七合六夕 官用地」となっている。
・上図、下図でオレンジに塗っているところは、田辺屋周辺で、2つの図で同じ名前のところ。20年間持ち主がかわっていないところだ。



この2つの図を見て、足立仁十郎・程十郎の田辺屋がほぼそっくり警察所になったのがわかる。「
「長崎県警察史」によれば、長崎警察所は、明治9年、この敷地を購入し移転してきたとなっているが、売却したのが誰かはかかれていなかった。それ以外の離れた足立の土地は個人に売り払われている。
上図の田辺屋周辺には、品川屋、尾道屋、などわりと大きい敷地を持った屋号があるが、明治20年の図には、それらは見当たらない。名前からしてどこかの藩の御用達だったのだろうか。
官用地となった田辺屋の敷地がその後どのようないきさつで今のデパートになったのか興味深い。

長崎に残る足跡(1)金刀比羅神社

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神社の玉垣に残る仁十郎の名前


長崎市民にとって、一番親しみのある山といえば、金比羅山(こんぴらさん)か稲佐山。
そのこんぴら山の山頂近くに金刀比羅神社がある。
社殿右側の石造りの玉垣に「足立仁十郎」の名前があった。

金刀比羅神社の由来(由来書き看板より)
祭神…大物主大神 祟徳天皇
相殿…菅原大神

金比羅山という名称は宝永2年(1705)吉祥院長慶が讃岐国から金比羅大権現の分霊をこの山に祀ったためである。
古くは瓊杵(とき)山または崇嶽(たかだけ)と称え天孫降臨の伝説がある。
弘仁年間(820) に神宮寺がたてられ明治維新になってから金刀比羅神社に改称した。
当時は往時から長崎奉行をはじめ一般の信仰が篤く長崎在住の華僑は海上安全の守護神と仰いで、海上交通の安全と貿易の隆昌を祈ったという。
上宮のある山頂には万治三年、黄檗僧木庵が眺望のすばらしさに感じてなづけた「無凡山」を刻んだ巨岩がある。


長崎に残る足跡(1)金刀比羅神社/続き

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玉垣に書かれた文字



1.右門石…奉献 世話人 友永長兵衛,菱屋喜兵衛
2.左門石…嘉永三年歳次庚戌 正月穀旦敬立
左玉垣…對馬屋勝五郎、永見徳太郎、足立仁十郎、袋屋與八郎、河内屋作五郎、堺屋彌吉、菱屋安兵衛、中尾民■、菱屋彌兵衛、田中藤吉、溝口■、
右玉垣…冬野総■、菱屋清蔵、長岡文次郎,日野屋要助、村上藤兵衛、原賀次右衛門

長崎に残る足跡(2)・大徳寺公園

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「長崎七不思議で、寺もないのに大徳寺」と歌われた大徳寺跡は、今は樹齢800年を越える大楠と「梅が枝餅」で有名。
しかし明治維新に廃寺になるまでは、寺格が高いのと、崎陽の景勝地でさらに唐人屋敷に近いので、長崎の人ばかりか旅の観客も必ずここに立ち寄ったという。
実際、大徳寺をバックに医学生と思われる侍たちの集合写真が、長崎大学所有の古写真の中に残っているし、明治維新後は、戊辰戦争や台湾出兵の御霊を祭る梅ケ崎招魂場が設置されたりした。
その大徳寺跡公園の梅が枝餅屋「きく水」近くで、興味深い石碑の残骸を見つけた。


指差している部分に、「足立 」と読める文字が見える。

長崎に残る足跡(2)・大徳寺公園/続き

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破片の姿から想像すると、灯籠の台座の一部だろうと思われる。
「奉献  足立」と読める。
足立のあとの部分はほとんど消えてしまっているが、足立の次の文字が「のぎ編」のように見える。
「程十郎」なら「のぎ編」
もしかすると、足立仁十郎の養子「程十郎」が奉納したのかもしれない。

この場所には、昔から楠神社や天満宮もあるので、豪商足立家が何かの縁で寄進したのかもしれない。
もしくは、ご維新後、朝敵・会津藩の御用達だったという家柄から、形見の狭い立場となっていた程十郎が、ので新政府への忠誠を形にしてみせなければならない事情があったのかもしれない。
足立仁十郎一族からの奉納物のかけらであってもおかしくないような気がする。

会津藩への献金で藩士にお取立て

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商人が用立てるって献金と同じこと

足立仁十郎と会津藩の関係を年表にまとめてみた。足立家の出来事、会津藩のできごと、長崎や幕府の出来事などを年表に起こしてみるとなかなか興味深いし、一人の人物を取り囲む歴史的背景がよくわかっておもしろい。
その中でも、仁十郎から会津藩へ、どの時点で大金が用立てられたかということが見えて興味深かった。

会津藩が長崎会所を通して清国に和人参(朝鮮人参)を輸出し始めたのは、天保元年。8代容敬公の時代。
そのころまでの会津藩は、永年にわたる借金の返済もすみ殖産興業にまい進していたころかな。それから慶応3年までの約30年間、ほぼ毎年清国に向けて和人参を輸出している。
和人参輸出の定期的な収入は会津藩の大きな収入源であり、藩の財政の支柱の一つだったことがこれらのことからもわかってくる。

記録では、足立仁十郎は、安政5年から万延元年ごろ、会津藩に1万両を用立てている。
その頃の会津藩主は、9代容保公。
安政6年にはそれまでの江戸湾砲台警備から蝦夷地開拓警備に転任。会津藩内では、安政の大地震の後でもあり、農民による打ちこわしや一揆も起きている。
1万両の献金がどれほど会津藩にはうれしかったかは、その後の仁十郎お取立てでもわかる。
献金の年、50歳の仁十郎は、会津藩人参捌方用足・足立監物として、5百石扶持で会津藩士に取り立てられている。

会津藩への献金で藩士にお取立て/続き

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会津に残る資金調達のエピソード

次の用立て(献金)は、それから、すぐ後の文久2年。なんと3万両を用立てている。
文久2年といえば、会津藩主容保公に京都守護職の任が下った年。
幕府は、京都守護職の役料として5万石と旅費3万両を貸与した。
京都守護職になれば、朝廷や公家との接触も多く交際費などもかかるし、守護のための武器や兵力も自前で備えなければならない。藩兵の出張費や留守家族への手当てなど、さまざまな出費がかさむ。この出費のために、藩内は守護職拝命の賛否で揺れ動いたほどだ。

会津に伝わる「しぐれ草紙」には、資金調達のエピソードが書かれている。
京都守護職拝命はたいへんお金のかかることで、藩は、人参方勤務の酒井文吾を2万両の資金調達のため長崎に向わせる。
文吾は、長崎で足立仁十郎に1万両上乗せして3万両の用立てを頼むが、仁十郎にしてもすぐに3万両がそろうわけでもない。
仁十郎は花月で文吾をもてなした時、酒の席の勢いで8杯のギャマンの大杯をみせ、これを全部飲み干したら3万両を用立てましょうという。文吾は酒に弱いことを仲のよかった仁十郎は知っていた。その席には長崎遊学中の神保修理もいた。
文吾は、修理に証人になってもらい、死ぬ気で飲み干し、3万両とギャマンの大杯を獲得した。というエピソードだ。
足立仁十郎は、このとき幕府が会津藩に貸与した金額と同額を用立てていることになる。

会津藩への献金で藩士にお取立て/続き

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壬生浪士隊のお手当ても仁十郎の献金から?

3万両とはどれくらいのお金かと言えば、千両役者という言葉があるが、年間千両を稼ぐ役者と言うことらしい。
千両は今の金額で2~3億円くらいらしい。ということは、一万両は2,30億円、3万両となると60億から90億円になる。
数年前の1万両を合わせるとほぼ5年間に100億円程の金を用立てたことになる。
これが、表向きは借金だが、実際には帰ってこない献金なのだ。

新選組ファンとしてこれをみると、芹沢鴨や近藤、土方たちの押借りがかわいらしく見えてしまう。
会津藩御預となった壬生浪士組のお手当ても案外、この仁十郎の献金から出ていたのかもしれない。
少なくとも、仁十郎の献金がなければ、浪士集団を抱えるほどの余分な資金はなかっただろう。
その後も、ちいさな献金はひっきりなしだったのではないかなあ。
さらには、慶応2年か3年、人参代金3万両を会津藩に前渡しているのに、人参は送られてこなかったという契約不履行という仕打ちにもあっている。
しかし、仁十郎は会津落城後、斗南まで同行して最期まで会津と共に生きている。

幕末の会津藩の資金的側面を支えた人参貿易とそれを一手に引き受けていた長崎の豪商・足立仁十郎のことは、もう少し知られてもいいのではないかと思えてくる。

会津藩、長崎で武器調達

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会津藩、プロシア人武器商人に小銃1300挺を発注

神保修理や秋月悌次郎ら幕末の優秀な会津藩士たちが長崎を訪れていることは彼らの記録などに残っている。
彼らは、御用達「田辺屋」を常宿にしていたのではないかと思われる。
例えば、秋月悌次郎を描いた「落花は枝に帰らずとも」(中村彰彦著)で、悌次郎が東浜町の宿舎から通事をつけて唐人屋敷の視察にいくというシーンがある。
仁十郎の「田辺屋」は東浜町にあり、足立家は唐寺祟福寺に墓地を持っているように唐通事と親しい関係にある。悌次郎に唐通事を付けて唐人屋敷を見学させる手配もさほど難しくなかったと思われる。
慶応4年の「家屋舗根證文」によるとこの東浜町の本宅敷地は575坪もあり、それ以外にも興善町や古川町に土地家屋を持っていた。
そのころの「田辺屋」は長崎でも屈指の豪商だったことが想像できる。

会津藩の武器調達といえば、プロシア人・スネル兄弟のスネル商会が有名だが、同じ慶応3年に、長崎でも武器調達をしていた記録が残っている。
史料によると、慶応3年4月、会津藩士山本覚馬、中沢帯刀が長崎に出向いて、シュンドナールドケウェール銃1300挺と銃の付属品、火薬、弾薬製造機、弾薬材料などを プロシア人のレーマン&ハルトマン商会に発注し,前渡金としてメキシコ銀7428枚、6500両が中沢帯刀から支払われたというレーマン側の覚書が残っている。
会津藩が発注した内容を見ると興味深い。(18ページ史料1参照)

注目すべきは、銃と弾薬だけでなく、弾薬製造機や弾薬材料まで合わせて注文しているところだ。
会津藩主松平容保公に信頼を寄せていた孝明天皇が崩御し、在京薩摩藩との協調路線が崩壊していく中で、会津藩はなんらかなきな臭さを感じ取っていたのかもしれない。

この会津藩の発注の記録が長崎運上所の記録には残っていない。
しかし、会津藩留守居役足立監物名義で、国のために銃購入したいので運上所買い上げの上御下げ渡しを願いたいとの覚書が残っている。(足立仁十郎は、元延元年、会津藩にお取立てになり監物と名乗った)
このうち会津藩用の銃は1300挺、残りの2020挺は、和歌山紀州藩のもので、山本覚馬と中沢帯刀は会津藩分と同じ時期に購入斡旋している。
なぜ会津藩の山本、中沢が紀州藩の武器購入の斡旋をしたのかは分からないが、少なくとも足立仁十郎と彼が一代で築いた「田辺屋」があったからできたことだと思う。
足立仁十郎の田辺屋は、長崎の対外貿易でも大きな力を持っていたことの証になるだろう。(16ページ史料2)

会津藩、長崎で武器調達/続き

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4320挺の銃は、おおよそ1年以内に引き渡すと契約書に書かれている。
会津藩の1300挺(内300挺は、会津藩を通して桑名藩が購入したもの)の銃は、会津藩に届いたのだろうか。
1年後の慶応4年(明治元年)1月に鳥羽伏見の戦いが始まり、敗走した幕府軍は江戸に戻り、会津藩主は、2月には会津に戻って武備謹慎の姿勢をとっている。
レーマンに発注した銃が慶応4年に長崎や神戸、大阪に届いても、会津藩の手に渡りにくい状況に見える。
ただ3月に会津藩家老梶原平馬がスネルからライフル780挺購入している。長崎で没収されたりしていなければ、スネルと同じようなルートで会津に届けることは可能だ。
今後、会津藩の史料などから、会津藩でシュンドナールドケウェール銃が使われたかどうかを知ることができればと期待している。
ちなみに紀州藩の3000挺は、明治2年6月神戸に入港した船で、紀州藩の届けられている。

この武器調達は、明治時代になってからも足立一族と長崎の御用達を巻き込んだ国際問題に発展した。
明治3年3月、大阪の居留地にいたカール・レーマンが、旧会津藩留守居役足立監物と旧会津藩御用達松永喜一郎に対し、慶応3年に売り渡した武器と附属品代の支払いを求めた訴えを 長崎の外務局に出している。
この裁判は、明治8年まで続き、結局支払いは行われなかったようだが、その間、足立仁十郎は、会津や斗南から申し開きの手紙を何通も長崎外務局に送っている。(下に手紙の一部に写真掲載)
この裁判の膨大な記録が残っている。足立仁十郎の立場からこの記録を読んでみたいと思う。



会津藩、長崎で武器調達/続き2

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史料1

今度会津山本覚馬中沢帯刀其
国君の多免カル,レーマン氏江
シュンドナールドケーウェール銃見本之通千三百挺左之附属品相添江
注文之事 (br /) 一、皮具   壱式全備
一、スクルーフ、テレツキケル 壱
一、用意スピラールフェール  壱
一、同 スロットフェール   壱
一、用意ナールデン      弐
一、同 スコールステーンチー 壱
一、ロイムナールト      壱
   以上筒壱挺毎ニ
一、玉鋳形          弐
一、火薬量          壱
   以上筒拾挺毎ニ
一、シュントスピーケル#パトローン 壱揃
   製作用機械
一、パトローン    弐拾万三百
一、シェントスピーゲル 八拾万
   以上筒千三百挺ニ付
一、筒壱挺付附属品共代メキシコ銀三拾四枚に相極メ候事
一、代価は其日之相場ニ従ひイチブ日本貨幣を以払入候事
一、此注文前渡として筒壱挺ニ付五両則六千五百両をメキシコ銀百枚ニ付八拾七両弐分之相場ニ而メキシコ銀七千四百弐拾八枚五拾七セントの辻をカル、レーマン氏江今日相渡置候事
一、筒四百挺は見本之通短く外九百挺は少シ長く欧羅巴ニおいて「リニーインファンテリー」ニ相用候品ニ有候事
…以下省略
(「長崎居留地貿易の研究」より)

会津藩、長崎で武器調達/続き3

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史料2
   覚
一、剣付小銃 四千三百弐拾挺
   但附属品共
右之品々為国用買入申筈ニ御座候
依之運上所御買上之上御下渡披成下
候様奉願候以上
卯二月  
      松平肥後守内
        足立監物

(「長崎居留地貿易の研究」より)

賊軍御用達の悲劇

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会津藩御用達として和人参貿易で一代を築き、外国人貿易商相手に徳川親藩の武器調達にも動くほどの財力と影響力を持った足立仁十郎の「田辺屋」が、突如長崎から消えてしまったのか。

慶応4年早々、鳥羽伏見の戦況が長崎にも届いてくると、幕府天領の長崎でも不穏な空気が流れ出した。長崎奉行河津佑邦は、長崎の地で、幕府と薩長軍との武力衝突を回避するため、後の治安を長崎代官や長崎駐在の薩摩藩士や土佐藩士に委ねて、長崎を脱出した
。 戦火を見ることなく幕府直轄の歴史が終った長崎には、九州鎮撫総督が置かれ、総督には沢宣嘉、大村藩藩主大村純熈、総督参謀には井上馨(いのうえかおる)達が任命され、完全に薩長土支配の町に変貌した。
戊辰戦争で幕府を支える親藩は、賊軍の汚名を着せられることになった。その筆頭が会津藩だ。
会津藩御用達の足立「田辺屋」も微妙な立場に立たされていたことだろう。

戊辰戦争集結直後、足立「田辺屋」は、朝敵・国賊のそしりを受け、家屋・家財などすべての財産を長崎裁判所に没収された。
没収された財産は、家屋・土地など、見積もりで5190両1分27文、押収された輸出用会津和人参が約24000斤(14トン)。
この家財没収を仕切ったのが、九州鎮撫長崎参謀として着任した長州藩士井上聞多。
このとき没収された東浜の町の店舗家屋などは、明治10年には、長崎警察署になっている。
この没収以外にも、足立「田辺屋」を襲った思いもかけない不幸がある。

人参貿易での会津藩の契約違反だ。
慶応2年寅年の人参が会津藩から、長崎に送られてこなかった。
寅年人参5万斤分分の代金3万両は、すでに会津藩に渡しているにも係わらず、品物は届かなかった。
会津藩江戸詰めが急な戦費調達にせまられて、長崎に送るべき人参を、横浜の貿易商に売りさばいてしまったのだ。
この人参は、すでに唐商人に売約済みのもので、期日までに人参を引き渡さないと多額の違約金を払わなければならない。
日本の歴史が大きく変わる変革の荒波の中で、足立仁十郎の「田辺屋」は破産に追い込まれていった。< /p>

賊軍御用達の悲劇/続き

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その後も、足立仁十郎の息子程十郎は、会津まで出かけて、違約分の人参を引き渡すように交渉したり、長崎裁判所に没収された人参の下げ渡し嘆願の訴状を出すなど、精一杯家業の再興に努力している。
「慶応四辰年二月会津産人参代金弐万円御下戻之義奉願候書付」という史料にそのいきさつが記されている。
この訴状を初めて取り扱ったのは井上聞多で、なんと明治7年5月。訴状が出されてから、6年も経っている。
井上が取り扱うのに消極的だった可能性も感じられるが、どうだろうか。
裁判は一向に捗らず、程十郎たちは、不服申し立てや再願提出など努力を重ね、明治11年3月、大蔵卿大隈重信からやっと下げ渡し通達が出された。
このとき、仁十郎はすでに78歳、息子程十郎も40歳になろうとしていた。

仁十郎は、明治4年には、会津藩士として斗南に渡り、寒さと飢えの悲惨な生活も体験している。会津藩士師弟の広連館留学の保証人も引き受けている。
明治政府に出した払い下げの嘆願書にも、会津藩への批判は一切なく、商法慣例に基づいた理路整然とした主張を通している。
時代に迎合することなく最後まで会津藩への忠義を尽す姿は、いっそ清清しく、商人の真髄を見たような気がする。

まとめ「足立仁十郎を探して」

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会津若松市に「かすてあん会津葵」というお菓子がある。
長崎のカステラとは違った風味のカステラ生地に上品な晒し餡が入り、表面には藩公の文庫印「会津秘府」が刻印されている。
このお菓子の栞に驚くことが書かれていた。その部分を抜粋する。

…前略…ではどうして長崎からはるか離れた山国会津に数多くの南蛮文化がもたらされたのでしょう。それには二つの大きな潮流が考えられています。
一つはレオという洗礼名を持つ隠れもなきキリシタン大名蒲生氏郷、他の一つは長崎にあって会津人参の貿易を一手に引き受けていた豪商足立仁十郎であります。
仁十郎は二年に一度会津を訪れて南蛮文化をもたらしました。…後略

会津には、戊辰戦争の象徴として『泣血氈』(きゅうけつせん)という赤い布キレがある。
会津戦争終結時に藩主松平容保公がその上に立って降伏謝罪をしたという緋毛氈を忠臣たちが「この日を忘れないように」と切り分けたものである。そしてこの緋毛氈は足立仁十郎が会津公に献上したものだと言われている。
また、会津の民芸品「会津唐人凧」のもとになる唐人凧を伝えたのは仁十郎だという言い伝えもあるようだ。
『慶応年間会津藩士名録』によると仁十郎は足立監物という名で七百石・御聞番勤肥前長崎表住居の御側衆という高待遇で会津藩士に取り立てられている。
幕末の会津の歴史に顔をだす長崎の豪商・足立仁十郎ではあるが、地元長崎の郷土史関係の書籍には、その名前すら載っていないし、仁十郎の足跡はなぜか長崎では、ぷっつりと消えてしまっている。

 昨年夏、長崎県立図書館で『足立仁十郎伝』(藤本勉著)という13ページほどの私家版を見つけた。
しかしその中にも長崎での足跡は記録されていなかった。 
   偶然にもその日、県立図書館副館長の本馬貞夫氏から、昭和59年発行の『長崎談叢69号』に本馬氏ご自身が足立仁十郎について書かれたとの情報をいただいた。
タイトルは『会津藩御用達足立家について―幕末長崎の人参貿易商―』。
本馬氏は、県立図書館蔵(当時)の「明治九年庶務課庶務係事務簿―足立程十郎人参販売一件書類」という史料に出会ったのをきっかけに、会津藩和人参貿易を長崎会所が引き受けたいきさつ、幕末期の和人参貿易の実態、足立仁十郎とその周辺、養子足立程十郎による没収人参返却の訴えとその決着などを調べ、覚書としてまとめられている。
 本馬氏の覚書によれば、会津藩が足立仁十郎を通して和人参(薬用人参、俗にいう朝鮮人参)の輸出をはじめたのは天保元年(1830)。文政12年(1829)幕府は正式に長崎会所を介して清国への輸出を許可している。
足立家は屋号を『田辺屋』といい、現在の浜屋デパート周辺に600坪以上の敷地をかまえた薬種問屋だった。(つづく)

まとめ「足立仁十郎を探して」/続き

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 足立仁十郎は、享和元年(1801)但馬ノ国与布土村森(兵庫県朝来市山東町与布土)の郷士の家に生まれている。
若い頃大阪の薬種問屋『田辺屋』(田辺製薬の前身)に奉公し、その間会津和人参の業務に携わり、やがて「のれんわけ」のかたちで長崎に会津人参御用達『田辺屋』を開いたようだ。
 当時、海防警備役などで、財政破綻寸前だった会津藩にとって、和人参輸出の収益や仁十郎の3万両を超える献金は大きな支えになっていた。
それに報いるように会津藩も仁十郎を手厚く遇している。

 仁十郎の菩提寺でもある兵庫県山東町与布土の玉林寺に仁十郎の肖像画があると聞き、ご住職にお願いして写真をいただいた。
仁十郎66歳の時の姿らしい。
裃の紋は足立家の家紋だが、着物の袖に葵の紋が入っている。着物は会津公から拝領したものだろう。
会津藩の仁十郎に対する感謝の気持ちがうかがえる。
幕末になると仁十郎は会津藩の武器購入にも関わったらしく、『近代日独交渉史研究序説』(荒木康彦著)という本の中にその名が出てきた。

                                        

 戊辰戦争後は、朝敵にされた会津藩の御用達に対する風当たりは厳しく、慶応4年(1868)3月、新政府が設立した長崎裁判所の参謀となった長州藩士井上聞多は、強制的に足立家の輸出用和人参や家屋・家財など財産一切を没収した。
その結果足立家は、急速に没落していったようだ。
 そのような逼迫した状態にあっても足立家は、旧会津藩士子弟の九州留学の身元引受人をするなど、会津藩との関係に筋をとおしている。
足立仁十郎とその一族はビジネスでは失敗者だろうが人間的なまっとうさを感じさせる。

 その足立仁十郎と家族の墓所が祟福寺裏山の墓地にある。
お寺側の話では、血縁の子孫は長崎外にいらっしゃるらしい。仁十郎とその妻の墓石には「祟福外護」と刻まれている。
この墓は長崎に残る数少ない足立仁十郎の足跡だ。
一族の墓石群の中に長崎の国学者で長崎市史の編纂に参加した足立正枝(俗名・半顔、大正10年没)の墓があった。
それぞれの墓石の前に小菊が供えられていた。
誰がお参りしたのだろうか。子孫の方がいらっしゃるのだろうか。
長崎での仁十郎の足跡はあまりに少ない。埋もれている可能性に期待している。

あとがきにかえて

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参考文献

・長崎談叢69号 掲載「会津藩御用達足立家=幕末長崎の人参貿易商」本馬貞夫 著
・足立仁十郎傳ー長崎屋ー 藤本 勉 著
・会津和人参海を渡る=陰の恩人・足立仁十郎 林 俊 著
・近代日独交渉史研究序説 荒木 康彦 著
・長崎居留地貿易の研究 重藤 威夫 著
・「新・ながさき風土記~地図と数字でみる長崎いまむかし~」永田信孝 著
・川口居留地研究会会報 第13号
・史料「独逸人レーマンより旧会津藩足立泉相手取小銃代金滞一件」
※「会津藩、長崎で武器調達」と「賊軍御用達の悲劇」以外の文章の初出は郷土史サイト「長崎微熱」(http://50s.upper,jp/)で2005~2006年にかけて掲載したものです。
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